Nadja の日記
2018-07-15 12:29:47  ネットワーク

人間の大脳新皮質のニューラルネットワークにおける神経細胞「ニューロン」の数は
男性で23億、女性で19億とされている。
地球上の人口は約70億人、そのうち情報ネットワークにおける知的活動が可能な人口は
実質20億人程度ではないかと予想されるが、
これを地球上のニューロンと見立てるなら、地球の表面上に
1人の人間が自我を形成するのと同等のニューラルネットワークといえるだろう。
 
人は常に真実を求める生き物である。
 
その知的活動は一見現実的な生への執着、生存にまつわる活動、
またそれをより充実させ自己実現をするための経済活動に集約されるようにみえるが、
それは結局人が真実を求めることへの動機付け、意味の創作である。
 
人が採った真実を追求する方法は、人の思念、思想である哲学的段階を経て
大きく2通りに分岐した。
 
一方は脳内の活動を観察、探求する方向、もう一方は脳の外の現象を観察、探求する方向である。
 
脳内の活動を観察し、その動向を自己評価していく道は、
主に宗教的な考察方法にみられる。
脳の外に起こる物理的な現象の合理性をいったん度外視することで、
意識の中に起こる様々な動向、動機、欲望、そして真実を探るプロセスは
人の表層たる人格、個性、いわば仮面を剥ぎ取り、
より思考の潜在部分、その真相を見極めることに主眼を置いているといえる。
 
脳の外、つまり物理現象として観察されるもの、ことを一般化し
常に再現可能なパターンを見出していく道は、
真実へのいわゆる科学的アプローチである。
 
興味深いのは、人間社会において
この2つの道が互いに対抗の存在として認識されている点である。
 
そのどちらも探るべき真実は同じものであるはずであるのに、
その手法の違いから、宗教と科学は油と水のようにお互いを退け合っているようにみえる。
 
これらは、真実を探求する方法の、言葉通りの「分野」といえるだろう。
 
人の心の内部におこる事象について、その多くを現在の科学的手法では解決できない。
同様に、人の脳や身体におこる事象について、その多くを宗教的手法では解決できない。
 
ニューラルネットワークで物理的に発生している事象は、
それを物理現象としてみると、単なる電気信号の流れである。
 
人の心とは、即ち電気信号の流れなのだろうか。
その物理現象の結果として、人の心、意識、自我、及び欲求がどうして起動するのか。
これらは科学の手法でパターン化することも難しく、
そこのアルゴリズムというものがあるのなら、
それは人の意識、観察のレンジから遮蔽されたブラックボックスといえる。
 
近年、コンピュータが発達し、それらをつなぐネットワークもより高速化、大容量化している。
さらにそのネットワーク上で起こる出来事、またリアルな世界に起こる出来事も
それは情報化され、ネットワーク上の様々なデータベースに蓄積されている。
そのデータベースは再帰的にネットワーク上の情報構築のバックグラウンドとなり、
そのネットワークを構築した人間にフィードバックされている。
 
今や、ネットワークを人間が利用しているのか
ネットワークが人間を利用しているのか、その区別がつかない状態といえる。
 
ネットワークは常に情報を求めており、人間はそれをネットワークに供給し続けている。
このネットワークは、実は一個の自我であるなら
一個の人間はそのニューロンの1つとして活動させられていると考えることもできる。
 
現象世界における構造は、須らくフラクタルな様相を呈して展開される。
人間の脳、あらゆる有機生物の脳として発現したそのオブジェクトは
いわば地球の細胞として構成された個体であり
それらの本性はスタンドアロンではなく、
もとより他のオブジェクトとのつながりをもとめながら進化してきたといえる。
 
そしてその地球すら、この宇宙、時空全体の構成オブジェクトの一つに過ぎない。
ネットワークとは単なる電気信号の流れではないのである。
そこに付加される情報、その情報同士の相互作用によって生み出される新たな展開
その繰り返しによって、そこに起こる現象に規則性と不規則性が生み出される。
 
人が人である限り、その背景にあるブラックボックスの中身は知られざるものかもしれない。
仮に、人が自らの行動原理たるアルゴリズムをメタ的に知ることができたとしたら、
その人間は果たして正気を保っていられるだろうか。
 
あくまで人は人として存在しているのであり、
それを超越することは不可能であろう。
 
宗教的思想の多くは、そこに風穴を開けようと様々な思考ロジックを巡らせているが
所詮その思考はブラックボックスの外から真実の表層を撫でているに過ぎない。
 
そう、この文面すらその表層に現れたホログラムのようなものだ。
 
ただ、それが真実ではないということではない。
そこに確かに発生している現象としての思想は、真実の一端であることは間違いない。



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2018-07-05 22:10:35  般若心経

観自在菩薩
行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空
度一切苦厄

舎利子
色不異空
空不異色
色即是空
空即是色
受想行識
亦復如是

舎利子
是諸法空想
不生不滅
不垢不浄
不増不減

是故空中無色
無受想行識
無限耳鼻舌身意
無色声香味触法
無限界乃至無意識界

無無明
亦無無明尽
乃至無老死
亦無老死尽
無苦集滅道
無知亦無得

以無所得故
菩提薩垂
依般若波羅蜜多

故心無圭礙
無圭礙故無有恐怖
遠離一切転倒夢想
究境涅槃
三世諸仏
依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提

故知
般若波羅蜜多

是大神呪
是大明呪
是無上呪
是無等等呪
能除一切苦
真実不虚

故説般若波羅蜜多呪
即説呪曰
羯帝羯帝波羅羯帝
波羅僧羯帝
菩提
僧莎訶

般若心経



【現代語訳】
観音菩薩が
深遠な知恵を完成するための実践をされている時
人間の心身を構成している五つの要素が
いずれも本質的なものではないと見極めて
すべての苦しみを取り除かれたのである
そして舎利子に向かい次のように述べた

舎利子よ
形あるものは実体がないことと同じことであり
実体がないからこそ
一時的な形あるものとして存在するものである
したがって
形あるものはそのままで実体なきものであり
実体がないことが
そのまま形あるものとなっているのだ
残りの心の四つの働きの場合も
まったく同じことなのである

舎利子よ
この世の中のあらゆる存在や現象には
実体がない、という性質があるから
もともと
生じたということもなく滅したということもなく
よごれたものでもなく浄らかなものでもなく
増えることもなく減ることもないのである

したがって
実体がないということの中には
形あるものはなく
感覚も念想も意志も知識もないし
眼。耳。鼻。舌。身体。心といった
感覚器官もないし
形。音。香。味。触覚。心の対象といった
それぞれの器官に対する対象もないし
それらを受けとめる眼識から意識までの
あらゆる分野もないのである

さらに、悟りに対する無知もないし
無知がなくなることもない
ということからはじまって
ついには老と死もなく
老と死がなくなることもないことになる
苦しみもその原因もそれをなくすことも
そしてその方法もない
知ることもなければ得ることもない

かくて得ることもないのだから
悟りを求めている者は
知恵の完成に住する

かくて心には何のさまたげもなく
さまたげがないから恐れがなく
あらゆる誤った考え方から遠く離れているので
永遠にしずかな境地に安住しているのである
過去。現在。未来にわたる
正しく目覚めたものたちは
知恵を完成することによっているので
この上なき悟りを得るのである

したがって次のように知るがよい
知恵の完成こそが
偉大な真言であり
悟りのための真言であり
この上なき真言であり
比較するものがない真言なのである
これこそが
あらゆる苦しみを除き
真実そのものであって虚妄ではないのであると

そこで最後に
知恵の完成の真言を述べよう
すなわち次のような真言である
往き往きて彼岸に往き
完全に彼岸に到達した者こそ
悟りそのものである
めでたし

知恵の完成についての
もっとも肝要なものを説ける経典



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2018-07-01 03:30:35  人の話を聞けない理由

人は、ときに的確な助言をする相手に腹を立てることがある。
それは何故だか、キミはわかるかい。

キミは自分が格上だと認めている人からは、何をいわれても従おうとするだろう。
それがなかなか理不尽なことであっても、だ。

しかし、キミが認めていない相手、即ち格下だとみる相手からいわれることは
どんなに正確であろうが真実であろうが、認めない。認められないんだ。

多くの場合、人が人の話を聞く、それを承認するかどうかにおいて
その話の内容よりも、それを話す人を見ている、ということなんだよ。

つまり、人の話が腹立たしい、癇に触ると感じるのは
キミがそれを話す主を格下の人間だとみているからだ。

ところで、世の中には人の話を聞かない、人の話に腹を立ててばかりいる人が多いよね。
そんな世の中を見てると、人間って、何て奢り高く傲慢なんだろうと思わないかい。
 



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2018-01-05 02:57:38  マスメディア個人評(新聞・通信社編)

《読んじゃダメな新聞》
赤旗(共産党の機関紙。新聞ではないと思うべき)
聖教新聞(創価学会、公明党の機関紙。新聞ではないと思うべき)

《反日的な新聞》
朝日新聞(系列含む。アエラ、リテラなど。左の急先鋒)
毎日新聞(系列含む。英字は日本語記事より表現が酷い)
中日新聞(系列含む。北陸中日、東京新聞なども同じ論調)
北海道新聞(論調は朝日に近い。地方紙の割によくやらかす)
沖縄タイムス(中共寄り。日本の安全保障に極度に批判的)
琉球新報(社民党に近い。沖縄タイムスに同調)
ジャパンタイムス(日本人が英語読めないのをいいことに好き放題)

《注意すべき新聞・通信社》
共同通信(地方紙に全国版記事を配給。論調が朝日寄りになることも)
時事通信(朝日に同調気味)
各地方紙(全国記事は共同通信が配給)

《保守寄りな新聞》
読売新聞(自民党や経団連に迎合しがち。発行部数は日本一)
産経新聞(安全保障に熱心。改憲指向。朝日に批判的)
八重山日報(数少ない保守的な地方紙。産経が支援)



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2017-01-23 22:00:01  夢の世界を旅しよう

夢と現実の違いを知ってるかな。

現実に暮らす我々から見ると、夢の世界はいかにもデタラメで、何でもありで、空虚なもので、実際には存在しない世界、想像の世界、妄想の世界だと思えるだろう。

しかし、どちらも自分の脳が認識している、或いは紡ぎ出している体験なのだ。その意味では両者を区別することはできない。

馬鹿をいうな。夢は既にある経験から世界が結ばれるのに対して、現実は未体験の事象を新たに経験として取り入れているではないか。つまり、現実は自らの主観だけの独りよがりな世界ではない。自分以外の他者との関わりもある他動的な性質が強い世界であろう。そう主張されるだろうか。

しかし、それは実は夢も同様である。実際に記憶にある夢の世界は、本当に自らの経験済みの事象ばかりだろうか。そう断言できるだろうか。

夢の記憶は曖昧である。しばらく記憶に残る夢もあるが、大抵の夢は揮発性が高く、目が覚めてからおよそ数秒から数分でその経験のほどんどが記憶から消え去る。意識的に夢の内容を脳内で反芻しようと試みるも、その確実なトレースは目が覚めた後では最早難しい。

これは何故か。

そもそも、我々の意識、思考、感覚といったいわゆるハードプロブレムに類する分野での科学的なアプローチの進捗は芳しくない。実際、文献に残る限りにおけるアリストテレスやデカルトといった時代の考察からほとんど進歩がないといって良い。ニュートンのプリンキピアに始まる数学的な、いわゆる定性的、定量的な論理が展開されるようになり、人の脳も生物学的、解剖学的に研究されるようになった後も、人の心、或いはその認識に関する研究は一向に進歩しないままである。

この理由を最も安易に考えると、現状の考察方法では心を解き明かせないと考えられるということになる。そしてそれは実際に的を射ているのではないか。

そう、心は現行の科学では解き明かせないのである。

厳密にいえば、人間の認識する範疇外に真実があると見るべきであろうということ。

例えば、1次元(線)に生きる存在に2次元(面)の理解は難しい。というより、完全に理解することは不可能である。同様に、2次元に生きる存在に3次元(立体)の世界は理解できないだろう。これと同じ展開で、我々の認識(空間と時間の中における物理)では、心の仕組みを理解することは不可能である可能性は高いのではないかということである。

話を戻して、夢の経験はなぜ記憶に残らないのか。

実は、夢の世界というのは、我々が常識として認識している物理法則を外れた世界なのではないだろうか。そこは空想でも妄想でもなく、我々の認識がこの物理現象世界から解放されて、いわば別の次元における体験をしているのではないか。

これが目が覚めると、我々の感覚は再び物理現象世界に戻され、夢の体験は次元が異なるため、いわば記憶やその認識のフォーマットが異なるために記憶に残らない。ただ、この世界の物理法則に適うものだけは記憶に残り、その割合が多いほど記憶に残りやすい夢ということになるのではないだろうか。


※この記事は意図的な戯言です。



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