Nadja の日記
2013-05-06 15:15:46  無駄なことをしよう

生活に必要なことであるかとか、実用的であるかどうかとか、それが何の役に立つのかどうかとかいう思考は、実はむしろ思考停止を招くこともあるのではないか。という指摘。

それが活きる上で必要であるか、あるいは有用、有益、いわゆる有意義であるかどうか。それを決めるのは自分自身の価値観か、他者からどう評価されるかのいずれかで決まる。ただし、後者は結局、他者から自分の言動が高い評価を得られるかどうかを自分自身が再評価することによって、自分自身の中でその存在価値が決められるものである以上は、最終的に前者の判断基準によって有意義であるかどうかが決定されることになろう。

例えば、生きていくためにお金を稼ぐ、その手段として何か職に就き労働すること、それは誰もが認める有意義(というより必要)なことであろう。しかし、その自分が生きるということそれ自体の価値判断についてはどうだろうか。自分が存在すること自体に何か意味があるのか、有意義であると認められる理由が見当たるだろうかと考えると、これは非常に難しい。つまり、有意義である前提についてさらに言及していくと根本問題にあたってしまい、そこで有意義であるとか意味があるとかいった議論が成立しなくなってしまう、いわば意味の不完全性原理のような問題が現れてくることになる。

多くの場合、何かが有意義であるかどうかは、その逆の無用、無益、役に立たないこと、要するに無駄なことに対比されて評価されるものである場合が多い。つまり、無駄なことがあるから、それを解決するための有意義なことが存在する価値も生まれてくる。この考え方であれば、有意義なことの根底にある意味を求める必要性はなく、問題解決を為す手段としての有用性、有益性として意味を持ってくる。

そう考えると、実は、無駄は無駄ではない。無駄なことがあるために有意義なものがある。ときには無駄と思えることをして、それが何故無駄だと評価されているかを考え、分析し、それを解決する方法、考え方、道筋、その実現を図るための言動であり、支援するツールを生み出していくことも、有意義なことなのではないか。

無駄は、翻って有意義なのだ。必要なのだ。つまり、世の中に、真に不必要な、いわゆる無駄とされていることは存在しないのだ!(言葉は矛盾しているが、意味は通じるかな)


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