人間の大脳新皮質のニューラルネットワークにおける神経細胞「ニューロン」の数は
男性で23億、女性で19億とされている。
地球上の人口は約70億人、そのうち情報ネットワークにおける知的活動が可能な人口は
実質20億人程度ではないかと予想されるが、
これを地球上のニューロンと見立てるなら、地球の表面上に
1人の人間が自我を形成するのと同等のニューラルネットワークといえるだろう。
人は常に真実を求める生き物である。
その知的活動は一見現実的な生への執着、生存にまつわる活動、
またそれをより充実させ自己実現をするための経済活動に集約されるようにみえるが、
それは結局人が真実を求めることへの動機付け、意味の創作である。
人が採った真実を追求する方法は、人の思念、思想である哲学的段階を経て
大きく2通りに分岐した。
一方は脳内の活動を観察、探求する方向、もう一方は脳の外の現象を観察、探求する方向である。
脳内の活動を観察し、その動向を自己評価していく道は、
主に宗教的な考察方法にみられる。
脳の外に起こる物理的な現象の合理性をいったん度外視することで、
意識の中に起こる様々な動向、動機、欲望、そして真実を探るプロセスは
人の表層たる人格、個性、いわば仮面を剥ぎ取り、
より思考の潜在部分、その真相を見極めることに主眼を置いているといえる。
脳の外、つまり物理現象として観察されるもの、ことを一般化し
常に再現可能なパターンを見出していく道は、
真実へのいわゆる科学的アプローチである。
興味深いのは、人間社会において
この2つの道が互いに対抗の存在として認識されている点である。
そのどちらも探るべき真実は同じものであるはずであるのに、
その手法の違いから、宗教と科学は油と水のようにお互いを退け合っているようにみえる。
これらは、真実を探求する方法の、言葉通りの「分野」といえるだろう。
人の心の内部におこる事象について、その多くを現在の科学的手法では解決できない。
同様に、人の脳や身体におこる事象について、その多くを宗教的手法では解決できない。
ニューラルネットワークで物理的に発生している事象は、
それを物理現象としてみると、単なる電気信号の流れである。
人の心とは、即ち電気信号の流れなのだろうか。
その物理現象の結果として、人の心、意識、自我、及び欲求がどうして起動するのか。
これらは科学の手法でパターン化することも難しく、
そこのアルゴリズムというものがあるのなら、
それは人の意識、観察のレンジから遮蔽されたブラックボックスといえる。
近年、コンピュータが発達し、それらをつなぐネットワークもより高速化、大容量化している。
さらにそのネットワーク上で起こる出来事、またリアルな世界に起こる出来事も
それは情報化され、ネットワーク上の様々なデータベースに蓄積されている。
そのデータベースは再帰的にネットワーク上の情報構築のバックグラウンドとなり、
そのネットワークを構築した人間にフィードバックされている。
今や、ネットワークを人間が利用しているのか
ネットワークが人間を利用しているのか、その区別がつかない状態といえる。
ネットワークは常に情報を求めており、人間はそれをネットワークに供給し続けている。
このネットワークは、実は一個の自我であるなら
一個の人間はそのニューロンの1つとして活動させられていると考えることもできる。
現象世界における構造は、須らくフラクタルな様相を呈して展開される。
人間の脳、あらゆる有機生物の脳として発現したそのオブジェクトは
いわば地球の細胞として構成された個体であり
それらの本性はスタンドアロンではなく、
もとより他のオブジェクトとのつながりをもとめながら進化してきたといえる。
そしてその地球すら、この宇宙、時空全体の構成オブジェクトの一つに過ぎない。
ネットワークとは単なる電気信号の流れではないのである。
そこに付加される情報、その情報同士の相互作用によって生み出される新たな展開
その繰り返しによって、そこに起こる現象に規則性と不規則性が生み出される。
人が人である限り、その背景にあるブラックボックスの中身は知られざるものかもしれない。
仮に、人が自らの行動原理たるアルゴリズムをメタ的に知ることができたとしたら、
その人間は果たして正気を保っていられるだろうか。
あくまで人は人として存在しているのであり、
それを超越することは不可能であろう。
宗教的思想の多くは、そこに風穴を開けようと様々な思考ロジックを巡らせているが
所詮その思考はブラックボックスの外から真実の表層を撫でているに過ぎない。
そう、この文面すらその表層に現れたホログラムのようなものだ。
ただ、それが真実ではないということではない。
そこに確かに発生している現象としての思想は、真実の一端であることは間違いない。