Nadja の日記
2016-01-11 12:21:52  宗教の要不要論

宗教なんて必要なのか。宗教なんて霊感商法で金儲けしたり、人を狂気に走らせたりする悪害でしかないんじゃないか。そんな話は良く語られるところだと思うが、本当に宗教は人間にとって不要なんだろうかと考えてみる。

まず、宗教というのはどういうものかというと、端的にいえば、人間より凄い存在、人間を超えた存在、要は何か神様を仕立てて、人間がその神様に救済を求める思想ということになるかなと。その神様の教えを信じて従っていれば救われるし、背けば罰せられるという考え方が基本になっていると思う。これは、キリスト教なら神の伝道者たるイエス、イスラム教ならアラーを崇める預言者ムハンマド、仏教は開祖であるお釈迦様が、それぞれの神的位置(神を伝導する存在)に君臨しているだろうか。日本古来からある神道の考え方も、あらゆるものに宿る神様に対して敬意を払うことが美徳とされている。

しかし、近年はそんな超越的な存在は現在の科学文明の世の中で疑わしいということになってきている。そんな神様を信じたところで、いくら頑張っても報われないし、死ぬときは死ぬし、人は単なる生き物の一種であり死んだらそれまで、天国に行くとか地獄に行くとか眉唾話信じるなんてバカじゃないのって評価に変わってきていると。

でも、人間も底抜けのバカではないなら、実はもともと本心ではそんなこと分かってたんじゃないかな。それでも、何も救いのない現実世界において、何か救われる道というか、希望を残しておきたい、つまり、信じたいという思いによって宗教は成立しているんじゃないかと思う。

宗教などいらない、となったとき、では人は何を道徳の基準にするのだろうかとなってくる。つまり、善悪の判断、何をするのが良いことで、何をやっちゃいけないのか、ということは誰が決めるのか。そんなものは人間が自分自身で決めれば良いと思えるが、そうなると個々の判断で何をやっても良いということにもなりなねない。何が善行で何が悪行かの判断は、同じ人間である自分、或いは他人がするのではなく、人間ではない存在、人間よりもっと上の存在に決めてもらうと納得しやすい。

要は、善悪を決める者が人間であってはならないと。それは宗教によってある程度決められ、こういうことをすれば良い、こういうことをしたらダメ、良いことをするとご褒美があるし、悪いことをすると罰が当たるとなっていれば、人はそれに身を委ね従うのが楽だし、みんなもそれを行動規範にしているなら、それをコミュニティのルールとして都合よく利用していけるということなんだろうと。

宗教は、ときに人が重大な心のダメージを負ったときの緩衝材にもなる。例えば肉親や友人など身近な人を亡くした際、人は甚大な悲痛と喪失感に打ち拉がれる。そんなとき、人は死んでも天国に行くとか、その魂は残された人を見守る存在になるとか、死後にも何らかの世界に存在し続けると教えれば、残された人たちの心は幾分か救われる。葬式をしたり、死者を墓に納めて定期的に拝んだりするなどの行為は、死者のためではなく実際は生きている人たちが自らの心を救う行為だろう。だから宗教的な儀式というのは、とにかくその形式が重んじられる。

一方で、宗教で神様の存在を決めているのは、結局人間である。その教えも、開祖が説いた教えそのままではなく、いくつか都合の良い解釈に変更されて存在しているのが一般的である。結局、本当は自分はこう考えたい、こう行動したいのだけど、それが神様に禁止されているとなると都合が悪いから、聖典に書かれているこの文面はこういう意味なんだと見なして(解釈して)都合よく正当化する。神様は実はこう言いたいのだとして、人間の意向を神様の意向に転化していると。これによって、もともと単一の宗教だったものが多くの宗派に分かれて存在するようになる。キリスト教も大きくカトリックとプロテスタントに割れているし、それらの中にもさらに細かい分派が存在する。これはイスラム教や仏教も同様である。

そもそも異なる宗教同士では、信じている神様が違う、つまり、道徳が違うということになるので、それぞれの正義が衝突することもままある。また、同じ宗教であってもことなる宗派同士では、お前らの解釈は邪道だとか、いやお前らの方が間違ってるなどという小競り合いも生じてくる。そういうバックグラウンドがあった上で、異なる宗教、異なる宗派の人間からケンカを売られたら、宗教という建前を持ち出して報復をしかけるというパターンの紛争、戦争も歴史的に常態化してたりする。報復が次の報復を呼び、報復の無限ループ状態に陥ってる地域も多い。それは、建前は宗教だけど、実は個人的な恨み、妬みの発露である場合がほとんどだと思う。

要は、宗教が悪害だというのは筋違いで、実際は人間のエゴを宗教のせいにしているだけじゃないのって話。神様の教えだから、或いは神様の意向に反するものだからという理由で、あらゆる残虐な行為に及ぶ原理主義といわれる人たちは、神様にその責任をなすりつけて結局自分のやりたいことをやっているだけなんだろうと。まぁ、それも宗教の一要素ではあるので、一概に宗教は無害であるともいえないとは思うのだけどね。
 


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